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日本人にとってのクレジットとは

初めてわが国でクレジットという言葉を使ったのは、当時は月賦百貨店だった丸井(本社・東京)で、一九六〇年のことです。クレジットカードがまだ登場する以前のことで、最初はクレジットプレートという紙製のものでした。東京の池袋にあった丸井はほとんどの学生がお世話になっていました。住むところは入学時に揃えるので急に必要になるものはありませんが、冬になるとコートが必要になります。今のように衣類が安く売られる時代ではありませんでしたから、学生が着るようなものでも結構な値段でした。

そこで冬になると、学生は丸井でコートを月賦で購入します。一〇回払いでしたから、そのコートの代金は次の年の秋ごろまで払うことになります。就職活動に必要なスーツも月賦が重宝でした。他にもいろいろ欲しいものがあるときは月賦を使うのですが、いくつも契約が重なると支払いは結構大変でした。しかしなんとか乗り切れば、とにかく支払いは終わりました。まだ自動振り替えがそれほど一般的ではなかったので、当時の丸井には持参払いというのがありました。店舗の最上階に支払い専用のサービスカウンターが設置されていて、そこで支払いを受け付けていました。

そして所定の支払いが完了すると、マグカップぐらいのものだったと思いますが景品がもらえました。社会人になると、首都圏に限定された事象だったと思われますが、日本信販のカードが定番でした。丸井よりも買い物の幅が広がるので、百貨店の提携カードで日本信販のカードを手にすることが多かったようです。ここでもやはり回数指定の月賦が使われていました。家庭を持つと、現在のような大規模な家電量販店はなかった時代だったので、電気製品の購入には街の電器屋さんに行く機会も多くありました。

現在では様変わりしてしまいましたが、そこでは家電メーカー系のクレジット会社が月賦を提供していました。自動車は月賦専用の手形を購入者が発行することで、ディーラーの月賦販売が成立していました。高度成長期の日本経済は産業資金の需要が旺盛だったこともあり、銀行がこの分野に参入する気はまったくといっていいほどなかったようです。その代わりに日本信販のようなノンバンクや、月賦百貨店、家電や自動車系のメーカークレジットが、消費者の資金需要に月賦という形を提供していたのでした。

決済の導入

わが国のクレジットの源流は、このように月賦販売が中心でした。しかし第二次世界大戦中は、完全にクレジット販売は停滞します。「欲しがりません勝つまでは」の戦時は、そもそも月賦どころではなかったからです。戦後になると月賦百貨店も営業を再開しましたが、月賦販売を仲介する専門業者が誕生します。一九五一年に三菱UFJニコスの母体になった日本信販が設立され、クーポンを発行しました。クーポンというのは、あらかじめ与信を受けられた人だけに発行される”信用票”とでもいうもので、加盟店で月賦販売を利用できるものでした。

同時期に各地の商店街組合もチケットといわれる信用票の発行を始めています。クーポンとチケットは呼び方が違うだけで同じ機能を持つものです。ただし、現代のように無担保のものではありません。クーポンは給料からの天引きで職域保証があり、チケットは地域の連帯保証で利用されていました。地域の粋が固かった当時は、こういった仕組みに違和感はなかったようです。そして高度成長期を迎えると、いろいろな商品が次から次へと登場して、月賦販売は庶民にとってなくてはならないものとなります。

月賦販売が順調かつ健全に進展するには、所得が右肩上がりで増えているのが最も望ましい状態です。少ない所得をやりくりして支出を平準化するのも、もちろん使い方としてはありますが、必需品の購入でない限り健全性を維持するのは難しいものです。高度経済成長がピークを迎えたのは一九六四年に開催された東京オリンピックです。同じころ、従来の分割払いとは毛色の違う与信システムが誕生しました。オリンピックで海外から来訪する観光客に便宜を図る目的で、日本ダイナースクラブ(現シティカードジャパン)が富士銀行(現みずほ銀行)と日本交通公社の合弁で設立されました。クレジットカードの登場です。このカードはマンスリークリアといわれる支払い方式で、月々の利用代金を翌月一括で払ってしまうというものでした。

その後も当時はいくつもあった都市銀行がそれぞれに、また共同で子会社としてクレジットカード会社を設立しました。初めのころのクレジットカードは、現在のようにサインや暗証番号で買い物ができるわけではなく、印鑑とサインが必要だったといった逸話や、カード加盟店の営業で小売店や飲食店に「カード会社です」と行くと「うちはカルタはいらないよ」といわれるなど、理解されて普及するまでにはずいぶん苦労があったようです。実際、クレジットカードの発行枚数は今でこそ三億枚を超えていますが、初めて統計がとられた一九七四年には二三〇〇万枚でした。初めてクレジットカードが発行されてからしばらくは、その普及はまったく遅々とした動きだったのです。

わが国のクレジットの始まり

廻船業者は大阪商人と関わることで、御用米を運んだ帰りに紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器などを仕入れて帰るようになりました。その漆器はもちろん伊予で売られたのですが、次第に販路は広がり十九世紀前半には、その販路は九州まで届きました。九州には唐津、伊万里といったブランド物の陶器がありますが、伊予の廻船業者たちは春にはその陶器を関西方面へ行商し、帰りに漆器を仕入れ、秋にはその漆器を九州方面へと行商するようになりました。

こういった取引を続けているうちに、膳や椀といった漆器の売れ行きが非常に良好であって、陶器に比べて軽く高価で利潤も多いことなどから、やがて漆器のみの行商へと移行していきます。付加価値の高い高価な商品を扱うことによって、椀舟(わんぶね)と呼ばれる漆器行商船が生まれ、その行商の範囲は西日本各地に広がっていきました。この段階で椀船商人は物流業者から流通業者に一段飛躍したわけですが、さらにここからもう一段飛躍します。

紀州から仕入れていた漆器を地元で製造すればもっと儲かると気づき、実際に始めたのです。そして、桜井漆器は堅牢で安価と知れわたるようになったのでした。名産の漆器を積んで西日本各地を行商して歩く桜井地方の商人は、行商先で「椀屋さん」と呼ばれ親しまれたそうです。わが国のクレジットの発祥といわれているのは、そこでの代金の回収方法です。商売の相手は主に比較的裕福な農民でしたが、彼らと取引する普通の商人は現金売りが当たり前でした。それがやがて秋の収穫後に支払う掛け売りになり、次いで盆暮れの半期払い、月賦販売へと移行していきました。

明治に入ると鉄道網も整備されたため、集金のための店舗も設置されるようになります。それが後の月賦百貨店に発展していったのです。今では出身は関係なくなりましたが、半世紀ぐらい前までの月賦百貨店には、愛媛県出身の人がずいぶんいたものです。これがわが国のクレジットの起源といわれている逸話です。当時の身分制度では決して豊かではなかった農民相手に、高価なものや必要なものを手に入れる手段として自然発生的に使われたのでした。月賦百貨店は死語ですが、東京に本社がある丸井がその最大手です。店内にある商品はすベて月賦販売することを前提として販売していたので、月賦百貨店といいます。

わが国のクレジットの源流

世の中には起業家といわれている人たちがいます。彼らに共通しているものは、マーケットが欲するものをいち早く察知してそれを事業化してしまうところです。もちろんそこにニーズがなければ成功することはありません。クレジットは消費者が使うものですから、消費者のニーズに応えなければ利用されることはありません。では消費者のニーズとは何かというと、その時代の技術が生み出した製品が、その時代の生活スタイルに欠けていて、その時代の消費者が欲しているかどうかということです。欠けていたとしても欲するものでなければ、消費者のニーズとはなりません。

そういう視点でクレジットがどう歩んできたかを、その発祥から最近まで駆け足で眺めてみることにします。金貸しが人類最古の職業といわれているのに比べると、クレジットが利用されるようになったのはずっと後のことです。理由は簡単です。商品の流通が盛んになって、庶民まで届くようにならなければクレジットは必要ないからです。この場合の商品は単なる第一次産業的な生産物ではなく、それを加工し付加価値を与えたものでなければなりません。わが国のクレジットの始まりは、「伊予の椀舟」商法といわれています。

江戸時代中期(一七六五年)に伊予の国桜井地方(愛媛県今治市)が幕府の天領になったことがきっかけです。当地で生産された年貢米は、幕府の御用米として米相場のあった大阪に運ばれました。その港になったのが桜井の河口港です。桜井は瀬戸内海の交通の拠点として次第に発展するようになりました。大阪をはじめとして各地との往来が活発になると、必然的に商業活動も盛んになり御用米を運搬する廻船業者も誕生しました。江戸の米運搬業者である札差が金貸しに転じたのと似たような経緯といえるかもしれません。

産業としてのクレジット

クレジットは特定の業界だけが提供しているのではなく、販売店が自社割賦を行っている場合も含めて取り扱いの裾野は広く、業として行う貸金業者よりも相当幅広いものとなっています。販売店も現在では、第三者機関が提供するクレジットを使う方がリスクもなく、現金化も早いために面倒な自社割賦を行うところは少なくなっていますが、簿記の教科書に割賦販売の処理が載っているぐらいですから、やろうと思えばいつでもできます。専業として最後まで残っていたのは月賦百貨店という業態でしたが、この業態は言葉自体が死語化しています。現在は大規模業者で自社割賦を扱うところはなく、媒介機関としてのクレジットカード会社や信販会社等が主流となっています。

それらの企業は独立系の場合もありますが、ほとんどは金融機関の系列に入っています。大量の売掛金を抱えるクレジットは、資金の手当てができないとビジネスになりませんから、当然といえば当然です。また大量の顧客を抱える大手小売業は、ほとんどが子会社としてクレジット会社を設立してクレジットカードを発行しています。このように多くの業態が取り扱うクレジットを、産業というかどうかはなかなか悩ましい問題です。消費者に与信するという意味では金融の一形態ですし、販売との密接な関係を中心に見ることができる業界ではサービス業の一種です。

そのどちらでもない、というのが答えになると思いますが、かといって独立した産業体というほどのものではありません。もしクレジットを産業として見るのであれば、その産業規模を示すなんらかの指標が必要になります。金融取引の指標は与信の残高です。クレジットの場合は残高も使いますが、メインとしているのは売上高です。新規信用供与額という当該期中に与信したすべてを指標としています。身近な例でいうと、クレジットカードの翌月一括払い(マンスリークリア)を使って公共料金の支払いをしていると、毎月の請求分の合計(一二ヵ月分)が新規信用供与額となります。

公共料金や税金は、以前は金融機関が自動引き落としをしていた領域ですが、最近ではクレジットカードで決済することができます。これらのものまで売上高といってしまうと、途方もない金額になります。統計上も、わが国小売業の代表格である百貨店やスーパーが軒並み売上高前年比を下回る昨今の状況下でも、クレジットカードは独り勝ちのように伸びています。消費者の決済や支出の平準化のためにあるクレジットだけが突出して成長しているのは、いささか解せないところです。

ですからクレジットはあくまでも社会においては黒子の存在で、消費者が求める決済や支出の平準化機能を裏方で提供している業界としておくべきです。クレジットなしでは生活できないほど社会の必要性は高いとはいっても、それだけで生活ができるわけはないからです。ただし、クレジットをうまく使うと需要を喚起できることは間違いありません。この機能をいたずらに減殺するのは、資源の有効活用という意味でもったいないことだと思います。