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区切りのある月賦とエンドレスのリボ②

銀行系カードにリボルビング払いを認めるべき、とアメリカは強く要求してきたのです。通産省(現経産省)も業界も対応に苦慮しましたが、結果は初めからわかっていました。通産省は日米構造協議がまとまってしまってからは、それまでのかたくなな姿勢をいとも簡単に破棄して、銀行系カードにリボルビング払いを認めてしまったのです。ただし分割払いは、このときは認めませんでした。一方、既得権としてこれまで分割払いのクレジットカードを独占していた信販会社や中小小売商団体などには、銀行のATMをキャッシングのために開放しました。

クレジットカードはこの段階で、従来のショッピングのための道具から、キャッシングのための道具に変わってしまいました。与信する側のカード会社も隣接業界である消費者金融業界が空前の利益を上げるのを見て、収益確保のスタイルをキャッシングに切り替えてしまったからです。銀行のATM開放がそのために果たした役割は絶大なものだったといえます。その後、二〇〇五年になると銀行本体のクレジットカード発行も認められました。

今度はリボルビング限定ではなく、分割払いも同時に認められました。最近のカード会社の広告を見ていると、売りたいのはショッピングのリボルビングのようです。貸金業法が改正される前まではローンを売りたがっていたようですが、こちらはさすがに規制が厳しくなり過ぎて今さら拡大することは無理のようです。しかしこれまで述べてきたように、わが国のクレジットの原型は分割払いです。リボルビングは支出の平準化という意味ではよい仕組みですが、これは債権者目線であって利用者目線ではありません。

月賦とリボルビングはどちらも支出の平準化を効果として持つものですが、リボルビングには支払いの終了という概念がそもそもないからです。もちろん新たに使うことをやめれば、いずれ債務はなくなります。ところが消費者は、なかなかその事実をわかろうとしません。ここで債権者目線という言葉を使ったのは、会社の利益は残高が生み出すものですが、そのためには簡単に残高が減らないようにすることが効率的だからです。

区切りのある月賦とエンドレスのリボ①

ここに、まったくもってややこしい問題が発生します。クレジットは月賦だけだと思っていた当時の人たちですが、クレジット先進国といわれていたアメリカでは、リボルビングがクレジットカードの常識だということを発見してしまいます。しかも銀行系カード会社と同じょうに分割払いが認められていなかった流通系クレジット会社も、クレジットカードの支出の平準化機能が欲しくて仕方ありませんでした。デパートやスーパーの販売促進には、絶対欠かせない機能だったからです。

さらに別の発見もありました。リボルビング払いはそれまでのわが国の返済方式の中にはなかった方法であって、割賦販売法にも規定がないのではないか。そのとおりです。当時の割賦販売法には定義されていなかったので、この取引は割賦販売法の適用を受けなかったのです。割賦販売法は指定商品制を採用していますが、この趣旨は過剰規制にならないことを目的としたもので、取引内容の定義についても同様の考え方がとられていたのです。最初にリボルビング払いを採用したクレジットカードは船橋東武百貨店で、一九七七年のことでした。

さらに大規模な取り組みをしたのは、月賦百貨店の緑屋を買収した西武百貨店でした。当時は西武クレジット(現クレディセゾン)といいましたが、自社カードにリボルビングの機能を付けてクレジットカードを発行しました。他にも当時は、一括払いしか選択の余地がない銀行系カード会社が、割賦販売法の適用を受けない二回払いを開発したり、一回払いの代金相当額を決済日に融資してその後ローンで支払ったりというような商品も生み出されました。

いささかゆがんだ商品設計といわざるを得ませんが、これも分割払いをするためには、割賦販売法でいうところの割賦購入あっせん業者の登録が必要だったからです。まさに開業規制だったわけですが、当時は申請書の受付すらしてもらえませんでした。ところが、一九八九年の日米経済構造協議から様子は一変します。内需拡大が今後の日本経済に欠かすことのできない政策と位置づけられ、そのためには規制緩和による経済の活性化が必須として種々の改革が進められました。端的にいえばアメリカの言い分をどこまでのむかということだったのですが、それまで閉鎖的だったクレジットカード業界にもその波は押し寄せました。

規制によってゆがんだクレジット市場

クレジットをビジネスとして成り立たせるための収益源は、消費者と加盟店から徴収する手数料です。クレジットカードの場合はこれに加えて年会費があります。最近のクレジットカード利用は圧倒的に一回払いが多くなっています。一回払いで手数料が取れればいいのですが、仮に取るとすれば現金で払う人の方が多くなつてしまいますから、いくらポイントのメリットがあるとしても、それはあり得ません。分割払いであれば、クレジット会社は加盟店手数料と消費者の分割手数料の両方を手にすることができます。この二つが揃って初めてクレジットはビジネスとして成り立つわけです。ここで書いている高度経済成長が終わったころの時代のクレジットは、現在と違って分割払いがよく利用されていました。

ようやく体制が整って銀行の一部門として機能し始めた銀行系カードは、分割払いが認められていませんでした。自社カードではなく、第三者型の分割払いのクレジットカードを発行するためには、割賦販売法の規定によって経済産業省の登録を受けなければならなかったからです。この規制は一九六一年に割賦販売法ができる以前から、行政指導で規制されていました。現代では考えられないような強力な行政権力が当時はあったのです。この発端は日本信販が全国のデパートと提携して分割払いができるクーポンを発行していたことにあります。クーポンというのは分割払い専用の証票で、現代のクレジットカードと同じ機能を持つものです。日本信販が大型店だとすると、各地には中小の商店が集まった商店組合があり、地域の商店街を対象にチケットというクーポンと同じ機能を持つ証票を発行していました。

大規模店舗が事業を拡大すると、中小商店街は生死の問題にかかわる、だから大規模店を規制して中小商店街を保護しょう、そのために大規模店のクレジットカードを扱う信販事業者は、一都道府県内に限定して事業を行うこと。この規制は一九五九年(昭和三四年)に出たことから昭和三四年通達といいます。割賦販売法が制定される二年前のことです。こういう規制が出た背景にあるのは、中小商店組合の政治力にほかならないのですが、この結果、分割払いクーポンで全国展開していた日本信販は、いくつかの会社に分割せざるを得なくなりました。

日本人にとってのクレジットとは

初めてわが国でクレジットという言葉を使ったのは、当時は月賦百貨店だった丸井(本社・東京)で、一九六〇年のことです。クレジットカードがまだ登場する以前のことで、最初はクレジットプレートという紙製のものでした。東京の池袋にあった丸井はほとんどの学生がお世話になっていました。住むところは入学時に揃えるので急に必要になるものはありませんが、冬になるとコートが必要になります。今のように衣類が安く売られる時代ではありませんでしたから、学生が着るようなものでも結構な値段でした。

そこで冬になると、学生は丸井でコートを月賦で購入します。一〇回払いでしたから、そのコートの代金は次の年の秋ごろまで払うことになります。就職活動に必要なスーツも月賦が重宝でした。他にもいろいろ欲しいものがあるときは月賦を使うのですが、いくつも契約が重なると支払いは結構大変でした。しかしなんとか乗り切れば、とにかく支払いは終わりました。まだ自動振り替えがそれほど一般的ではなかったので、当時の丸井には持参払いというのがありました。店舗の最上階に支払い専用のサービスカウンターが設置されていて、そこで支払いを受け付けていました。

そして所定の支払いが完了すると、マグカップぐらいのものだったと思いますが景品がもらえました。社会人になると、首都圏に限定された事象だったと思われますが、日本信販のカードが定番でした。丸井よりも買い物の幅が広がるので、百貨店の提携カードで日本信販のカードを手にすることが多かったようです。ここでもやはり回数指定の月賦が使われていました。家庭を持つと、現在のような大規模な家電量販店はなかった時代だったので、電気製品の購入には街の電器屋さんに行く機会も多くありました。

現在では様変わりしてしまいましたが、そこでは家電メーカー系のクレジット会社が月賦を提供していました。自動車は月賦専用の手形を購入者が発行することで、ディーラーの月賦販売が成立していました。高度成長期の日本経済は産業資金の需要が旺盛だったこともあり、銀行がこの分野に参入する気はまったくといっていいほどなかったようです。その代わりに日本信販のようなノンバンクや、月賦百貨店、家電や自動車系のメーカークレジットが、消費者の資金需要に月賦という形を提供していたのでした。

決済の導入

わが国のクレジットの源流は、このように月賦販売が中心でした。しかし第二次世界大戦中は、完全にクレジット販売は停滞します。「欲しがりません勝つまでは」の戦時は、そもそも月賦どころではなかったからです。戦後になると月賦百貨店も営業を再開しましたが、月賦販売を仲介する専門業者が誕生します。一九五一年に三菱UFJニコスの母体になった日本信販が設立され、クーポンを発行しました。クーポンというのは、あらかじめ与信を受けられた人だけに発行される”信用票”とでもいうもので、加盟店で月賦販売を利用できるものでした。

同時期に各地の商店街組合もチケットといわれる信用票の発行を始めています。クーポンとチケットは呼び方が違うだけで同じ機能を持つものです。ただし、現代のように無担保のものではありません。クーポンは給料からの天引きで職域保証があり、チケットは地域の連帯保証で利用されていました。地域の粋が固かった当時は、こういった仕組みに違和感はなかったようです。そして高度成長期を迎えると、いろいろな商品が次から次へと登場して、月賦販売は庶民にとってなくてはならないものとなります。

月賦販売が順調かつ健全に進展するには、所得が右肩上がりで増えているのが最も望ましい状態です。少ない所得をやりくりして支出を平準化するのも、もちろん使い方としてはありますが、必需品の購入でない限り健全性を維持するのは難しいものです。高度経済成長がピークを迎えたのは一九六四年に開催された東京オリンピックです。同じころ、従来の分割払いとは毛色の違う与信システムが誕生しました。オリンピックで海外から来訪する観光客に便宜を図る目的で、日本ダイナースクラブ(現シティカードジャパン)が富士銀行(現みずほ銀行)と日本交通公社の合弁で設立されました。クレジットカードの登場です。このカードはマンスリークリアといわれる支払い方式で、月々の利用代金を翌月一括で払ってしまうというものでした。

その後も当時はいくつもあった都市銀行がそれぞれに、また共同で子会社としてクレジットカード会社を設立しました。初めのころのクレジットカードは、現在のようにサインや暗証番号で買い物ができるわけではなく、印鑑とサインが必要だったといった逸話や、カード加盟店の営業で小売店や飲食店に「カード会社です」と行くと「うちはカルタはいらないよ」といわれるなど、理解されて普及するまでにはずいぶん苦労があったようです。実際、クレジットカードの発行枚数は今でこそ三億枚を超えていますが、初めて統計がとられた一九七四年には二三〇〇万枚でした。初めてクレジットカードが発行されてからしばらくは、その普及はまったく遅々とした動きだったのです。

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