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わが国のクレジットの始まり

廻船業者は大阪商人と関わることで、御用米を運んだ帰りに紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器などを仕入れて帰るようになりました。その漆器はもちろん伊予で売られたのですが、次第に販路は広がり十九世紀前半には、その販路は九州まで届きました。九州には唐津、伊万里といったブランド物の陶器がありますが、伊予の廻船業者たちは春にはその陶器を関西方面へ行商し、帰りに漆器を仕入れ、秋にはその漆器を九州方面へと行商するようになりました。

こういった取引を続けているうちに、膳や椀といった漆器の売れ行きが非常に良好であって、陶器に比べて軽く高価で利潤も多いことなどから、やがて漆器のみの行商へと移行していきます。付加価値の高い高価な商品を扱うことによって、椀舟(わんぶね)と呼ばれる漆器行商船が生まれ、その行商の範囲は西日本各地に広がっていきました。この段階で椀船商人は物流業者から流通業者に一段飛躍したわけですが、さらにここからもう一段飛躍します。

紀州から仕入れていた漆器を地元で製造すればもっと儲かると気づき、実際に始めたのです。そして、桜井漆器は堅牢で安価と知れわたるようになったのでした。名産の漆器を積んで西日本各地を行商して歩く桜井地方の商人は、行商先で「椀屋さん」と呼ばれ親しまれたそうです。わが国のクレジットの発祥といわれているのは、そこでの代金の回収方法です。商売の相手は主に比較的裕福な農民でしたが、彼らと取引する普通の商人は現金売りが当たり前でした。それがやがて秋の収穫後に支払う掛け売りになり、次いで盆暮れの半期払い、月賦販売へと移行していきました。

明治に入ると鉄道網も整備されたため、集金のための店舗も設置されるようになります。それが後の月賦百貨店に発展していったのです。今では出身は関係なくなりましたが、半世紀ぐらい前までの月賦百貨店には、愛媛県出身の人がずいぶんいたものです。これがわが国のクレジットの起源といわれている逸話です。当時の身分制度では決して豊かではなかった農民相手に、高価なものや必要なものを手に入れる手段として自然発生的に使われたのでした。月賦百貨店は死語ですが、東京に本社がある丸井がその最大手です。店内にある商品はすベて月賦販売することを前提として販売していたので、月賦百貨店といいます。