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規制の移り変わりとクレジット

割賦販売法が制定された一九六一年は、「もはや戟後ではない」と経済自書が宣言した五年後のことで、日本経済の復興が著しいころでした。戟後の復興の原動力ともいえるのが傾斜生産方式といわれる経済政策です。日本経済の屋台骨になるであろう鉄鋼や造船などの重厚長大産業に優先的に資金を入れて、それらの産業を牽引車にして経済を復興させようという政策です。現在のように銀行に貸し先がないという時代ではありません。いくらでも資金需要はあったのですが、優先順位が決められていたのでそれ以外の日常的な産業には目も向けられませんでした。

さらに貸すには資金が必要ですが、そのために貯蓄の励行が国家規模で行われ、当時の小学校には子供貯金なるものまでありました。子供のお年玉を貯金させてまで産業資金に充てようとしていたのです。日本銀行には金融広報中央委員会という金融知識の伝達機関がありますが、この組織の過去からの名称をみるだけでそのことは一目瞭然です。金融広報中央委員会は、一九五二年に貯蓄増強中央委貞会として発足しています。名称が示すとおり、貯蓄増強が国家として喫緊の課題だったからです。

バブル経済崩壊前の一九八八年には、貯蓄広報中央委員会に名称変更し貯蓄から投資に政策が変わると、金融知識全般の知識伝達機関に衣替えしています。割賦販売法の制定は貯蓄増強中央委員会の時代です。一九五一年に日本信販(現三菱UFJニコス)を立ち上げた山田光成は、事業が軌道に乗ると資金繰りにとにかく苦労しました。クレジットという仕事は加盟店の売掛金を一手に引き受け、そこに存在価値があってビジネス的にも成り立つものですから、当然といえば当然の苦労をしたわけです。特に日本信販は、全国の百貨店を加盟店にクレジット事業を展開し成功した会社です。

まだ日本経済は復興間もないころで、彼が事業を立ち上げるにあたって標榜したのは「貧乏人の子供にランドセルを」でした。今ではランドセルもデフレの影響でそれほど高価なものではなくなっていますが、当時は庶民の所得がそもそも低かったので大変だったのです。また、商業的な環境も今とは違っていました。スーパーが現れてくるのは日本信販とほぼ同時期ですが、大規模化するのはまだ先のことです。大規模商業施設といえば百貨店でした。百貨店は都市の中心部にありましたが、そこには現在ではシャッターを下ろしたままの店舗が連なる商店街もありました。現在と違うのは、商店街が元気だったことです。

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当時のクレジット業界

割賦販売法の一九七二年の改正時に「購入者等の利益の保護を図り」という言葉が目的規定に追加になりました。さらにケネディの消費者権利宣言と照らしながら見るとよくわかりますが、消費者の選択を担保するために表示に関する規制が明確になりました。このときの改正は、①実質年率表示の義務づけ、②クーリングオフの導入がポイントですが、中でも実質年率表示の義務づけはこれまでの業界の慣行を打ち破った大改正でした。それまでの割賦販売は、アドオン料率が使われ表示されていました。これは期間に対応しない、元本に対する金利の割合だけを料率としたものです。例えば一〇万円の買い物に対して一万円の金利が発生するとすると、これが三回払いであろうと、一〇回払いであろうと、アドオン料率は一〇%です。

当然に一〇回払いで返済した方が金利の負担は少ないのですから、料率的には低いはずです。同じ元本を長く借りても、短く借りても料率が同じになってしまうのです。金利を元本で割るだけですから計算には便利ですが、これでは消費者はどう比較したらいいかわからなくなってしまいます。特に問題になるのは、実質年率という期間に対応させた料率と比較すると、料率が半分ぐらいになってしまうことです。当時は世の中の金利が高かったですから、標準的な一〇回払いが六・五%と聞くとすごく割安感が出てしまったのです。ところがこれは実質年率では一四%になります。当然の規制といえばそれまでですが、これは実務的に大問題でした。

実質年率はパソコンがあれば簡単に金利計算ができますが、当時は電卓がやっとの時代です。数学的な知識があれば計算は可能だったかもしれませんが、セールスマンにそれを望むのは無理というもの。そこで登場したのが「実質年率早見表」なる虎の巻でした。一九七二年の割賦販売法改正によって、行政は消費者保護に大きく舵取りしましたが、このころからクレジット業界は急激に発展するようになります。起爆剤になったのは、信販会社の全国展開です。三十四年通達によって地域限定での営業活動を余儀なくされていた信販業界でしたが、同じころから急成長した訪問販売会社の全国展開と歩調を合わせるように全国に支店を出店するようになったのです。

セールスマンが靴底を減らして戸別訪問する訪問販売は、化粧品、寝具、英会話教材、学習教材とたくさんの種類があって、売上もかなりのものがありました。もちろんある日、突然セールスマンが訪問してきて、その場で販売し購入してしまうのですから、後悔はつきものです。手持ちの現金の範囲であれば、それも「失敗しちゃった」ぐらいで済んだかもしれませんが、それではセースルマンも訪問販売会社も儲かりません。そこで登場したのが信販会社との提携でした。訪問販売会社のセールスマンがクレジット契約書を持ち歩いてその場でクレジット契約の申込をすれば、手持ちの現金の範囲をはるかに超える金額の販売が可能になります。この場合の後悔は、手持ちの現金の範囲をはるかに超えます。

ひょっとすると、家計に重大な影響を与える金額の場合もあります。こういったことがあったので、一九七二年の改正ではクーリングオフが他業界に先駆けて初めて導入されました。クーリングオフは民法の規定からすると完全に逸脱しています。民法の原則に従うと契約自由の原則の下、形式にもとらわれることなく契約書すらなくても契約が成立するのが当然です。ところがそれを無条件で解除することができるというのですから、すごい規定なのです。導入されたこの改正時にはクーリングオフの期間は四日でしたが、その後、何度かの改正のたびに延長されて現在は八日になっています。

消費者保護の潮流と悪質販売業者との取引

割賦販売法は、その後、幾度となく改正されます。最初の一九七人年改正の内容は、月々の分割払いは同じですが、先に分割で払ってしまって満期になると商品をもらえる前払い式割賦にかかわるものでした。商品の受取が前か後の違いといえばそれまでですが、当時はこの方法も割賦販売として扱われていました。それで割賦販売法の中に同居しているわけです。消費者に前払いさせて後で商品を引き渡すというのは、産業資金が枯渇していた当時としては極めて合理的な方法でした。戦後最初の平和産業ともいえるミシンは、庶民の憧れの商品で大変な人気を博していました。まだテレビさえも出てきていない時代ですし、服さえ満足になかった時代です。いや、生地さえなかった時代ですから、戟時服である国民服を直して着るにはミシンが必要だったのです。

そのミシンですが、メーカーにもお金はないし製造するための材料も満足ではありません。そこで予約販売でお金を集めて、材料が揃って製品にしてから渡せばいいわけですから、会社としてのリスクを最小限にすることができ、計画生産・計画販売を可能にしたのでした。後払いのクレジットは、一九七二年の改正が一大転機になりました。消費者保護の考え方が取り入れられて法律自体の性格が消費者保護に傾いたのです。この契機となったのは、一九六人年に制定された消費者保護基本法です。現在では消費者基本法と名称が変わって、さらに重要な法律になっていますが、当時としては相当斬新な考え方に基づくものでした。

この「消費者の利益の擁護」という言葉が、消費者保護をするための法律であることを宣言するものであって、後の消費者関連法に大きな影響を与えるようになります。とはいってもわが国オリジナルの考え方ではなく、当時の先進国に広がりつつあった考え方でした。発端になったのは、アメリカの第三十五代大統領ジョン・F・ケネディです。彼は大統領に就任した一九六一年の翌年、議会に対する「消費者の利益保護に関する特別教書」の中で、「四つの消費者の権利」をうたった消費者権利宣言を発しました。消費者の権利とされたのは、①安全を求める権利、②知らされる権利、③選ぶ権利、④意見が反映される権利の四つです。第二次世界大戦後のアメリカは独り繁栄を極めていましたが、一九五八年に経済学者のガルブレイスによる『ゆたかな社会』がベストセラーになるなど、産業社会に対する批判的な考えも見られるようになりました。

ガルブレイスの同書による、生産者側の宣伝によって消費者の本来意識されない欲望がかき立てられるとする「依存効果」という考え方は、これまでの豊かさの裏側にある虚構性を突いたもので、当時はまさに異端ともいうべき論調でした。また、消費者運動家のラルフ・ネーダーが一躍社会に出るきっかけになった『どんなスピードでも自動車は危険だ:アメリカの自動車に仕組まれた危険』が出版されたのは一九六五年のことです。ガルブレイスからケネディ、そしてラルフ・ネーダーに続く従来にはなかった産業社会に対する一連の発言は、そのままアメリカだけにとどまらずに世界中に広がったのでした。

当時の消費者保護

当時の消費者保護はどのような考え方でとらえられていたのでしょうか。制定当時の国会議論から紹介します。論点は自力救済に絞られていたようです。どういうことかというと、一九五九年四月十一日の商工委員会で質問に立った議員は、当時使われていた約款には「甲又はその代理人は予告なく乙の使用又は管理に属する土地建物に立ち入り、車輌の占有を回収し、これを搬出することができる。乙はこれを妨げることができないばかりでなく、家宅侵入賠償等の要求をすることができない」といった条文があると紹介して、こういった自力救済を禁止する条項が法案に反映されていないことに疑問を呈しています。つまり、いつの時点までかはわかりませんが、割賦販売で売った商品の代金が支払われないときに売り主(債権者)は、勝手にその商品が置いてある家屋に入って商品を引き揚げることができたようなのです。

この間題は、法律案を作成する段階の経済産業省(当時は商工省)の産業構造審議会流通部会で検討されていたものです。政府レベルの審議会で議題に上るほどですから、当時の商習慣として自力救済は一般的だったのかもしれません。国会審議の中でも自力救済については、商品の取り返し方があまりに強引だったために強盗犯の判決が出たケースもあった、という政府委員の発言も残されています。もちろん法的に認められていたわけではありません。コンプライアンス重視の現代の感覚からすると、あまりにも乱暴な約款ですが、債務者保護、消費者保護という視点がまだ弱かった時代ですからそれでも通用していたのです。

要するに、払わないのが悪い、で済んでしまったのです。国会における政府委員の説明からも、それはうかがえます。自力救済の禁止を法案に盛り込まなかった理由を政府委員は、「(現在の法律制度の下でも自力救済はできないのは常識だから、)そういたしますと、ここに割賦販売の場合についてだけ自力救済の禁止規定を設けますと、それじゃ、割賦販売以外の場合にはいいのか、という反対解釈が出る恐れはないだろうかというような法律技術上の問題から」法文化をとりやめたと説明しています。詳しいことはわかりませんが、新民法の影響かもしれません。つまり、割賦販売法ができるまでの割賦販売業界は上から目線であって、「消費者に月賦で売ってやる」という姿勢だったように思われます。

割賦販売法制定

昭和三十四年通達は、経済産業省の前身である商工省の事務次官通達でした。閣議の前に行われていた事務次官会議が廃止になった昨今では想像もつかないことですが、当時の事務次官は強大な権力者でした。その二年後に制定された割賦販売法は、流通秩序を保つことを目的にしていました。第1条の目的に、そのことは明確にうたわれています。割賦販売法は制定以来何度も改正されていますが、なかでも大きな改正は一九七二年と一九八四年の改正、それと二〇〇八年の改正です。条文中カッコの部分はその改正の際に加えられたもので、それを除いたものが制定当時の条文です。

なお、第2項の中小商業者の事業の安定、振興については、制定時のままです。第2項を見ると、割賦販売法は以前に紹介した昭和三十四年通達を引き継いで制定されたものであることが、よくわかると思います。さらに政府は一歩進めて、経済政策のひとつとしてクレジットを使おうと考えていました。当時は、後に所得倍増計画を打ち出して総理大臣になった池田隼人が商工大臣でした。割賦販売法の審議をしていた一九五九年四月十一日の衆議院商工委員会で、池田は「今後生産が増大し、そうしてこれを健全な消費に向けていくためには、やはり欧米諸国でやっております割賦販売制度を育成していくことが必要である。

生産、消費の合理的方法を考えるのみならず、進んで経済、金融の調整をする一つの手段として伸びていくことが、私は、国力の発展、経済の上昇に必要であると考えておるのであります」と述べています。さらに池田は、公定歩合、預金準備金制度、オープンマーケットオペレーションに並ぶものとしてクレジットを経済、金融政策の柱にしたいとまで述べています。その象徴的な条項が標準条件です。純粋に経済発展とクレジットを考えるとこのようなことになるものと思いますが、消費者保護については、まだそれほど重要な位置づけにはなっていません。この点について委員の質問に答える形で、松尾政府委員は次のように答弁しています。

「各委員の方々の御意見を達観してみますと、一部の委員の方々から、割賦販売という制度は、いわゆる物を買いやすくするという点では、確かによい面もあるだろうけれども、やはり日本古来のいわゆる勤倹貯蓄の思想からいうと、この割賦販売があまり広く利用されると問題があるということに比較的重要を置いて意見をいわれてもございます」使い過ぎに対する懸念は半世紀を経て法律化されますが、まさに当時は世の中に古き良き時代の倫理観が残っていたのです。国全体が産業資金の確保のために貯蓄を奨励していたのですから、当然といえば当然かもしれません。

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